Eさん

私は医療従事者です。平成24年3月末ごろ、咽頭痛あり、鏡で喉の奥を見たところ舌がうねうねと動き、ALSの攣縮とは明らかに異なり、それと共に左手の小指球の持続したspasmを認めました。昼夜問わず、左上肢の筋のピクツキが出現し、腱反射も3+と亢進していました。病的反射無し。感覚障害無し。そのうち階段昇降時踊り場で全く足が挙がらなくなり、呼吸苦も出現しました。つま先立ちも両側でも出来ず、踵歩きも困難でした。患者さんを抱き上げる際力を入れると今度は開かなくなり、これは自分の経験した中でも全く理解できない症状でした。
直ぐに懇意にしている整形外科の先生に診察を受け、その場で紹介状を近医の脳神経内科へ書いてもらいました。
最初は対症療法からはじめて行きましたが、あまり効果なく、徐々に手指の動きが緩慢となり表面筋電図で異常波形あり、主治医に見せたところ筋電図を取る事になり、MCV正常・M波の後期応答、F波不能期あり。
平成28年1月大学病院で一連の筋電図検査受け、左大腿内側広筋、小指球筋刺激で両側の下肢、上肢の再現性のある共同した持続収縮を認めました。
MCVを取っているときも反対側が一緒に動いていました。検査時はジアゼパムを飲んでいると出にくいので、私は未だ症状が軽かったので前日から飲まずに挑みました(人によってはお勧めしません)。これらの事よりアイザックスではなくStiff person syndrome であるとの確定診断を受けました。
その後、薬剤を調整してもらい症状は幾分緩和されました。しかし侮るなかれ、進行性の疾患!
雨の中指定難病審議会参加の為東京駅から大手町まで歩いたところ、工事中で階段や人混みがあり、手すりも無い中杖だけで歩くことになり、徐々に全身の硬直状態となり声も出せなくなりました。3歩歩いて休む、繰り返しやっと駅の職員らしき人を発見。休むところを尋ねると「東京駅に内には救護室はありません、駅のホームには座るところがあります。」と、もう返答する気にもなれず、10m先に見える交番へ何十分かかっただろうか?たどり着いたところで、手は震え声も発せず、慌てた警察官が椅子に座らせてくれて救急車を呼んでくれました。家族への連絡先を聞かれて携帯を出し開こうとするが、手が震えて出せない。やっと開けたところで、今度は疾患名を聞かれる。嗄声で何度言っても相手は聞いたことが無い疾患なので理解できない。書いてと言われても書けない。救急隊も必死で受け入れ先を探してくれて、日医大の神経内科の先生が受け入れてくれました。何とか痛みが緩和され、車椅子に乗れるようになった頃息子が迎えに来てくれ帰る事が出来ました。翌日から主治医の下でステロイドパルス3クール実施し、歩行や手指の動きは格段に改善され、無事社会復帰できました。負担をかけないように重いものは持たない、階段は使わない等調整しながら仕事を続けて来ました。その後も調子が悪くなるとIVIGを実施、デカドロンパルス等実施してきました。副作用で大腿骨頭壊死や白内障等出現し、ステロイド減量。硬直歩行は悪化、呼吸苦あり。拘束性障害ありSpO2低下あり、2月に風邪をこじらせてから、酸素療法と夜間のNPPV使用となりました。
難病対策は、指定難病以外は地域包括ケアでの対策に国は方針を示しまいた。つまり、自分で役所へ交渉しなければなりません。身障手帳は3級をもらえましたが、屋外での歩行は硬直となり呼吸筋スパズムが直ぐに出現します。ましてや標準型車椅子では駆動すれば上肢の痙攣が出ます。動画や病気の説明等訴え、実際に自費でレンタル(月3万)し、実用的に使用している旨を伝えて電動車椅子を支給してもらえました。
酸素療法に入った頃、起き上がりが困難となっていたため、電動ベッド申請しましたが、却下。3級だからです。身障手帳2級以上でなければいけません。また申請のやり直しです。ここから3か月以上はかかります。リアルタイムでの対応は大変困難な状況です。仕方なく自費で購入して退院に備えました。その後療養休暇取得し、退職となりました。
介護保険は申請した日に遡って給付を受けられます。進行性の難病では何かのイベントがあるたびにがくんと症状が進行する事があります。財源は何処からというかもしれません。地域格差が確実に出ます。レンタルの補助等検討してもらいたいものです。やはり国において対応してもらいたいものです。少なくとも指針だけでも出してもらいたいものです。
仕事を失い、障がい年金が支給されるまで(発症から1年半)要します。生活困窮し助けを求める会員さんが多くいらっしゃいます。画期的な治療もそうですが、経済的な支援、リアルタイムでの支援、各地域の難病センターでの難治性疾患研究事業に登録されている疾患への支援の強化をお願いしたいと思います。そこへの医療職の配置が必要だと感じます。
 人工呼吸器・酸素追加してやっと酸素飽和濃度維持出来ています。夜間は時折、分時換気量下限値(1ℓ/分)のアラームが鳴ります。停電時の対策として非常電源確保が必要ですが、31年度の国の指針では入所施設及び在宅診療を行っている在宅酸素・人工呼吸器使用の患者のみ非常用電源の助成を行う事でした。県へも問い合わせましたが、同様の結果でした。主治医と相談してくださいとのことでしたが、難病の方は殆どが、総合病院や大学病院で管理しています。3次救急で災害時に受け入れる事は困難だと思います。包括ケア対象の市町村への問いかけでは、自助・共助で対応してくださいとのこと。障害年金は8か月過ぎても何の音沙汰もありません。身障手帳更新も6か月過ぎていますが、返答ありません。高額の医療費に加え、非常電源の設置も自力で行う事は現実的ではありません。災害時の要援護者の避難場所としての入所施設で、非常用電源を十分に確保出来ている施設はどれほどあるのでしょうか?各市町村で十分まかなえる状況に有るのでしょうか?包括ケアに関わっている医療職の方は是非この点についても検討して頂きたいと思います。

Dさん

これは私が訴えたいことです。

平成22年8月にK医大を受診。この時はまだ杖をつきながらでも歩けました。
ただ入院中の検査の移動は車椅子でした。そのくらい歩行が困難な状態でした。

検査結果は何処も異常が無かったため、精神科へまわされて治療を受ける事になりました。
でも当時会計事務所でフルタイムで働いており同僚からも所長からも精神病ではないと言われて、あちこちの病院で検査を受けましたが、抗体が見つからないからスティッフパーソンの確定診断には至らず、精神的なものとなりました。

それから歩けなくなり、仕方なく実費で電動車椅子をレンタルしました。
仕事もしんどくて出来ず、その出費は大きいものでした。

Dr.に障がい者手帳の診断書を書いてもらえないかとお願いしましたら、貴方には書く気は無いとはっきり言われました。
本当は歩けるのに歩けないふりをしているのかは、理学療法士さんがみたらわかる事だと思います。
私も理学療法士さんからはこの脚では歩けないですねと言われました。
しかしDrが診断書を書いてくれないと、どんなに困っていても障がい者手帳ももらえないし、行政からの何の援助も受けられません。

T大学のK教授に診断を受けたところ、精神的なものから来てないです。これは病気ですと言って頂けたのですが、やはり抗体が出ないため治療を受ける事は出来ませんでした。しかし、身体障がい手帳は書いて下さりました。しかも1級に該当すると。
でも病気の症状が精神病と似ているため7月に提出したのに実際にもらえたのは12月になってからでした。

進行性の病気の為、初めのころは車椅子で出掛けたり、車の運転も出来たのですが、それも出来なくなりました。
去年の5月頃からは入院している方が多くなりました。
もっと早く治療が受けられていたら、此処まで悪くならなかったのでは?と思います。

現在家でも酸素吸入をし、動くのを出来るだけ少なくするように尿道に管を入れています。
そして口から水分が取れないので胃瘻から栄養剤を注入しています。胃瘻に薬を注入するのが、手も震えシリンジを押すのも大変になって来ています。ヘルパーさんの資格を取るときに、これも含めて頂けませんか?

私とALSさんでは違いますが、発作が起こると少しの間呼吸が止まり、話すことも、目を開けられない状態になります。僅かに動くのは首を縦に振ることくらいです。
こういう患者もいると知って頂きたくて、今日は参加させて頂きました。
それと自分では動けませんので、入院中は80近い両親に洗濯物を頼んでいます。
家では毎日ヘルパーさんにしてもらっています。病院でも毎日とは言いませんが、ヘルパーさんに来てもらえるようになりませんでしょうか?宜しくお願い致します。

Cさん

スティッフパーソン症候群という病気をとりまく環境についてご説明させていただきます。

非常に稀な進行性の神経疾患で自己免疫疾患(原因不明ですが、自分の体を攻撃する抗体が自分の体の中で作られ障害を引き起こす)の一種です。
とても知名度が低く、この病気を専門に扱う神経内科の専門医ですら知らないことが多いのです。

実際、体調の異変を感じ整形外科を受診。病気がわからず、精神科へ回される。しかし否定される

このように病名がわからず苦しんでいる患者さんが多いことを知り、ぜひこの病気を教えてあげ、早く治療へつながれるよう助けてあげたいという思いから、拡散をお願いします。

スティッフパーソン症候群は難病指定されていません。

知名度が低いため、国や自治体、医療機関からも満足なサポートが受けられず家庭にも大きな負担がかかっています。
しかし、研究をしてくださっている先生方はおられます。
アメリカではすでに認可されています。

スティッフパーソン症候群は悪化するまで見つからない事も多く、悪化した場合には身体に大きな痛みと障害をもたらします。
本来人間は体を動かす際、動かす筋肉と反対の働きをする筋肉がお互い邪魔をしないよう働くのですが、反対の筋肉を緩めることができず同時に力が入ったままとなり筋肉の硬直や痙攣を起こすのです。
中枢神経における抑制神経伝達やいろいろな抗体、腫瘍(乳癌・肺癌など)が原因などで起きることもあります。
 いろいろなタイプがありますが、主に体幹を主部位として、しだいに四肢、更に全身へと進行します。
 特徴的症状である発作性有痛性痙攣は、随意運動・痛覚・聴覚・触覚・騒音・衝撃情動などでも敏感に刺激され誘発し悪化します。
 全身に症状がおよぶと肺が動かせなくなり、呼吸が止まり突然死する場合もあるのです。
はっきりとしたデータはありませんが100万人に1人ともいわれています。
しかしようやく認知度が出てきて、患者数がどんどん増えてきています。
診断が付かず苦しんでいる患者さんを救ってあげたい。

ご縁があり拝読された読者様、どうぞ拡散をお願いします。

Bさん

備忘録
2015年6月…、私は忘れない。
まさかこれが前兆だったとは。
久しぶりに実家に帰省して楽しい時間を過ごし、夜になって寝ようと布団に仰向けになった途端にそれはやって来た。右足爪先(下)からじわじわと足の付け根(上)までの前面がピーンとつって猛烈な激痛に襲われた。
「痛ったーーーいっ!」
思わず叫び声が出た。
妹と娘が驚いて足の付け根のリンパを揉んでくれた。
それから暫くなりを潜めていた症状だったが7月になり仕事中に左膝を骨挫傷し、ギプスを巻いた。
右足にかなりの負担がかかったのだろう。
その頃から右足のつりが頻繁に起こるようになる。
10月になると猛スピードで進行し1人では歩けなくなる。
この時私はまだ左足の怪我で右足を酷使したためだと思っていた。
病院では車椅子を借りないと診察にも行けない状態。
元々膝の変形症があったのでこのせいだと信じていた私は整形外科で右膝の人工関節置換術を決めた。
そして2015年11月手術。
「○○さん、終わりましたよー、わかりますか?」の言葉で意識が戻ったが、同時に手術した足がまたまたつって激痛・・・
ICUで「足がつって痛いですーーーっ!」と叫んでしまった
手術の傷の痛みなんて全く感じない別の激痛。
痛み止を入れてもらいながら一晩ICUで過ごす。
そのあと個室で1泊、翌日大部屋へ代わった。
看護師さんや執刀医が様子を見に来る度にドキッとして右足がつる…。
強張ったまま弛緩しない。
医師に伝えるが「あーこむら返りでしょ」の一言。
何故こんなに頻繁に起こるのか?
ベッドの頭をいつも起こして夜は座ったままうとうとする日が続く。
夜勤の看護師さんのラウンドの時、私を見て皆さんびっくりしておられた。
リハビリも始まったがベッドに仰向けになれない…。
機械を使って強制的に膝を曲げる(120°まで)リハビリも毎日2回。
仰向けになるので機械に固定された途端に激痛。
暴れるので機械ごとベッドから落ちそうになったことも。
度々ナースコールをした。
約1ヶ月ここにいて一向に好転しないままリハビリ病院への転院を勧められた。
(急性期の病院は1ヶ月しか置いてくれない)
家の近くの大きなリハビリ病院(今通所で通っている)へ転院した。
さてリハビリ病院では私専任のチームが組まれ(Dr.・PT・OT・看護師)3ヶ月のリハビリ生活が始まった。
Dr.以外は私の子供みたいに若い方。
理学療法の時には先ずはマッサージ、でもその最中にも右足はつる…。
揉みほぐしやっとほぐれた頃にまたつる。
歩くリハビリなどあまり出来なかった。
S先生は「○○さん、最初は楽勝だと思っていましたよ、でもこれは絶対に何かあると思います。」とおっしゃった。
作業療法ではお風呂の入り方を練習した。
畳の部屋に掃除機をかけたり…。
症状は様々だけれど多くの方々と励まし合いながら過ごした3ヶ月はとても懐かしい。
そして2016年3月退院・・・
不安だった。
この状態で、家で生活できるのだろうか?
そしてまたまた症状が悪くなる。
一旦横になると一人では起き上がれない。
子供2人で「リフト」という技で立たせてもらったことも度々。
寝返りすら打てない私。
もう椅子に座って過ごすしかない、絶望。
家族が仕事に出掛けると私1人で留守番。
退院から2週間ほど過ぎた4月4日、足がつりそのつりは更に上へやって来て胸までつって息が出来ず「うっ!!」とうずくまった。
初めての事だった。
それを娘は見ていて…出勤したものの早退してきてくれた。
「お母さん、病院行くよ!神経内科に!」
何故娘が神経内科を選んだのかわからない。
手術をした病院の神経内科、呼ばれて車椅子で診察室に入るとそこにいらしたのが今の担当医。
先生は苦しい息遣いでこれまでの症状を説明する私の話を一生懸命に聞いてくださった。
先生の足を何度も蹴飛ばした(足がつり)
一通り話を聞き終えた先生は「このまま入院しますか?」
「お願いします!」
正直ホッとした私。
病室の準備が出来るまで外来で看護師さんの迎えを待った。
さて病室へ着くと直ぐに2人の医師が来てくださり血管注射をされた。
ベッドに座っていた私に「はいちょっと立ってみて!」と。
な、な、なんと・・・すっと立ててびっくり。
多分セルシンだったのかと思います。
それから数日免疫治療の点滴が続いた。
副作用があって眠くなるらしいのですが、一年近くまともに眠っていなかった私には有り難かった。
治療方針の計画表を見せてもらった時に病名が書いてあった。
『スティッフパーソン症候群』
初めて聞く病名・・・
ネットで検索しても情報は少ない。
友人が調べてコピーしてくれたのが以前「拡散希望」で記事にしたものだった。
えっ、100万人に1人?
日本に数十人?
希少難病で難病指定されてない?
完治薬ない?
頭の中は真っ白。
奈落の底へ突き落とされた気分、絶望。
でも私は有り難いことにそれから足はつらなくなった。
あの激痛はなくなり、膝の痛みと歩行障害だけとなった。
でもスティッフパーソン症候群は進行性の難病…、すでにIDDM発症して4ヶ月。
出来るだけ進行が遅いほうがいいが、それは神のみぞ知る…
今やれることを今精一杯にやる事が希望です。
治験が必要になったらどうか私の身体を使って下さい。
似た症状があっても『スティッフパーソン症候群疑い』の方も多い。
研究が進み治療法が見つかる事を願うばかりです。

Aさん

スティッフパーソン症候群と診断されて8年ほどになります。今、47歳です。

今、思えば毎朝の朝礼のラジオ体操で「跳躍」ができなくなったことがおかしいと思い始めたきっかけでした。

もともと重症筋無力症を発症(29歳)しており、そちらは落ち着いていたのですが、そのせいかと、初めは開業医の先生のもとに駆け込みました。薬を増やしても良くなるどころか、足の運びが思うようにならなくなり、こむら返り、腰の激痛(今思えば筋痙攣)、下肢の違和感、どうしたらいいのかわからない日々でした。

そこで、開業医の先生が大きい病院で診てもらったらどうかと紹介状を書いてくださり、以前、重症筋無力症でお世話になった病院の神経内科にかかり、様々な検査の結果、血液検査によりGAD抗体が6万超えで、症状からしても間違いないということでやっと病名が付きました。

おかしいと思い始めてから半年後でした。

幸いにして私の主治医が過去にこの病気の患者に出会ったことがあったため、症状等からもしやと疑ったようです。

まだひとりで歩けていた頃は、「止まってしまうかもしれない。」という恐怖から、横断歩道が渡れなくなり、歩きがぎこちなくなるとともに何度も転び、酷い時は脳震盪はもちろん、肋骨骨折、顔面強打による骨折と、転んでばかりで気づけば支えがないと歩行できなくなっていました。

もう2度も転倒により会社から救急搬送されているため、仕事中・外出時は車イスを使用しています。私はまだ状況はどうあれ勤務できていますが、ホリゾン1日あたり40ミリが無ければ、間違いなく体は固まってしまいます。(一度妊娠時に一切の薬をやめるよう産婦人科の主治医に言われ、子供のためにとホリゾンをゼロにしたら、みるみるうちに固まり、14週耐えることができず、残念ながら子供も流れてしまいました。) こんな症状があっても指定難病に含まれない。では、何を持って国が難病と判断するのか、全く理解できません。病人(症例)の数で量られるのはあまりにも不公平であると思っておられる方は私だけではないと思います。